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庵主の言葉

 庵主の富士見庵日種です。富士見庵という名をどうしてつけたかという由来は、私の法系に、明治期に、富士見庵に住んでおられた方があり、その方に因んだものです。それと、ここ、東京都心から西に数10キロのところから、冬になれば、晴れている日には、富士山がきれいに見えることからです。
 ここの富士山の写真は、この場所から撮りました。
 日種という名は、仏の幼名として、有名ですが、私の袈裟免許の時、貌下からつけていただいたものです。直接の師匠に、あとから、そのことを言いましたら、それは、あまり、名がよすぎるので、よくない。そういうことで、私の日号は、直接の師匠から、日英とつけられました。
 それで、この日種という、すばらしい名前は、ここでつかわせてもらっています。南無○経。
 庵主は、戦後の昭和の二十八年ころに、得度しました。正式に本山から度牒と、沙弥の免許を得たのは、三十年ころと思います。和紙で、達筆で書かれた果たし状あるいは、下文のようなものがありましたが、どこかに行ってしまいました。惜しいことをしたものです。非常な達筆で、貌下みずからお書きになったものと、信じています。
 しかし、引っ越しの時に、どこかにやってしまったのでした。
 袈裟免許は、高校に入る時にもらいました。それは、いまだにあります。かなり古くなっていますが。
 小さい時から、坊主でしたが、高校三年の時に、抜け出しまして、世間の学問所に入りました。世間の勉強のほうがおもしろかったからです。
 それで、言語関係の部に入りました。四年間いとまをいただいて、また、寺に戻り、三年間、遅れたところを修行しました。
 それから、また、抜け出して、言語関係の仕事をして、また、戻ってきました。
 聖人にあやかろうと、三十五までは、世間を見るために、遊学(?)していたということです。神社仏閣を何回もまわりました。それが仕事だったものですから。それはよいと言われました。
 物見遊山でしたから。というより、日本のことを紹介するので、勉強は必要でしたが。おもしろい時期でした。
 しかし、八年もやって、どういうわけか、戻りました。あたかも、清澄に戻った聖人に擬してです。
 しかし、念仏無間等々は、唱えられませんでした。それだけの学問がなかったからです。
 それからは、外には、出ず、もっぱら、師匠について、勉強いたしました。あたかも、身延から一歩も出なかった聖人を擬してです。
 しかし、そのように言うのは、おこがましいでしょう。
 そうして、この年になります。
 そろそろ、究竟の法門がわかってもいいころであるとも思います。
 そういうことです。
                       富士見庵日種

  平成二十八年八月
南無○経。南無○経。南無○経。